元助の遺徳をしのび、南房総市との交流深める 「忠僕元助向西坊供養祭」開催
安中市秋間地域にゆかりの深い『忠僕 元助』。3月25日、安中市原市の碓氷安中農協(JA碓氷安中)本所大ホールで「第53回忠僕元助向西坊供養祭 全体祭並びに交歓会 〜千葉県南房総市の皆さんをお迎えして~」(秋間史跡保存会主催)が開催された。またそれに先がけ、同地域の長岩地区(四十七義士石像前)、久保地区(久保観音堂前)、館地区(出生地供養像前)でも供養祭を開催。今年は向西坊元助保存会など南房総市からの来賓も多数訪れ、約85人の参加者が「忠僕 元助」「西向坊」の遺徳をしのんだ。
『仮名手本忠臣蔵』で広く世に知られるようになった元禄赤穂事件。吉良上野介義央邸に討ち入った四十七士の物語はさまざまな形で伝えられているが、安中・秋間地区にも赤穂事件にまつわる伝説が残されている。江戸時代、下秋間村に生まれた元助は、吉良邸に討ち入った義士の一人、片岡源五右衛門高房に仕えていたという。義士らが討ち入りを果たして切腹した後、元助は剃髪(ていはつ)して音外超円と名乗り、浅野内匠頭長矩、瑤泉院、四十七義士を供養する石像と供養塔を作ってその菩提を弔ったと伝えられている。この石像、供養塔が、安中市指定史跡となっている「元助遺跡義士石像・義士供養塔」だ。
また、南房総市では、元助は「向西坊」として知られている。元助は、安中で四十七士の菩提を弔った後、諸国行脚の旅に出て同市和田町花園の曹洞宗花園山長香寺に足を止め、晩年を過ごしたと伝わる。同地の黒滝には、自らの天命を悟った向西坊が念仏を唱えて入定したとされる「向西坊入定窟(こうさいぼうにゅうじょうくつ)」(旧和田町指定文化財)も残されている。この縁で、安中市の史跡保存会と南房総市の向西坊元助保存会は長年友好を深め、現在まで交流が続く。
忠僕元助向西坊供養祭全体祭には、秋間史跡保存会、向西坊元助保存会の会員らをはじめ、茂木英子市長、岩井均県議、千葉県南房総市和田町地域センター長ら多数が出席。同会の鈴木繁会長は、あいさつの中で元助遺跡訪問者から寄せられた声や、南房総市との交流について伝えた。また、会員有志による日舞や、八幡八木節愛好会による「八木節 忠僕元助」、秋間公民館「日本のうた教室」参加者の合唱なども披露。終盤には、参加者全員で「忠僕元助の唄」を合唱し、全体祭を締めくくった。
続く、忠僕元助向西坊交歓会では、長香寺の佐粧博道住職が、映像を交えて「向西坊」(元助)の足跡などを紹介。元助を通じて広がった交流をさらに深める交歓会となった。来月初旬には同寺で「向西坊供養祭」が開催される予定という。