初代群馬県令・楫取素彦の『五言絶句』を鑑賞
大河ドラマ「花燃ゆ」の影響により、昨今、県下でにわかに注目されている初代群馬県令、楫取素彦。県指定史跡「五料の茶屋本陣」を取材するボランティアサポーターらに同行して同史跡を訪ねた際、意外な場所で楫取素彦の書を鑑賞することができました。
その書は「お東」上段の間に展示されている、中島徳造家所蔵の五言絶句。掛け軸には、
清世蠲苛政 不須察異言
誰何人去尽 関枝宿雲昏
香山八幡 菅屋帰雲
不如帰 耕堂主人哲
と書かれており
「清世(せいせい) 苛政(かせい)にいさぎよし すべからず異言(いげん)察すべし
誰何人(だれなんびと)も 尽(ことごと)く去る 関枝(かんし) 雲昏(うんこん)に宿る」と読むそうです。
この五言絶句には「太平の世は時に苛政(過酷な政治)に潔いものだ。苛政を行ってはならない。為政者として都合の悪い意見にも耳を傾けるべきだ。でなければ、誰もの心が離れていってしまう」といった大意があり、剛直であったがゆえに不遇の人生をおくった「菅屋(谷)帰雲」を称え、同時に苛政を戒める自らの政治信条を詠ったものと推察されています。
ここに登場する菅屋(谷)帰雲は、江戸後期の高崎藩士。書家でもあった帰雲は、寛政のはじめごろ、藩主の揮毫した額字が藩主にふさわしくない気品の乏しいものだったため、それに対して苦言を呈してしまったようです。それが藩主の怒りにふれ、禄を取り上げたられた上に野火止(現在の埼玉県新座市)へと左遷、15年ほどの歳月を過ごしたといいます。帰雲は、文化年間になってから高崎に戻り、晩年に書かれたと思われる帰雲の漢詩が中島家に残されていました。
同史跡でいただいた資料にある中島徳造氏の記述には「(当家の)祖先が、帰雲の漢詩を楫取県令に見せたのかもしれない。近年、この6枚の書が200年ぶりに屏風に仕立てられ、茶屋本陣東に展示されている」とあります。ちなみに、楫取素彦は諱を「希哲」、号にはこの書にある「不如帰耕堂」をはじめ「耕堂彜堂」「晩稼」などがあったとされています。
楫取素彦とその夫人である寿(寿子)、文(美和子)について、また、県内の『ゆかりの地』については、ぐんま「花燃ゆ」プロジェクト推進協議会のホームページなどをはじめ、多くの媒体で紹介されています。興味のある方は、ぜひ同史跡を訪れ、楫取素彦氏の書を鑑賞してみてはいかがでしょうか?