忠臣蔵にまつわる史跡?! 〜仙石因幡守の石祠・頌徳碑〜

(2015年12月14日 お使い アリさん)

 今日12月14日といえば、赤穂浪士「討ち入り」の日(旧暦のため、西暦では翌年1月30日)。浄瑠璃、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」のもととなった事件として知られる「赤穂事件」はあまりにも有名だが、この事件にまつわる史跡、文化財が安中市にもあることをご存知だろうか? 市指定史跡である「元助遺跡義士石像」(同市東上秋間)、「義士供養塔」(同)は、地域では知られた存在だが…。もう一か所、赤穂事件につながる市指定史跡が残されている。

 それが「仙石因幡守の石祠および頌徳碑」。別媒体に掲載した原稿の取材も兼ね、安中市磯部の同史跡を訪ねた。碑に記された旗本・仙石因幡守久邦(久俊ともいわれる)は、江戸時代(正保〜寛文期)、東上磯部村~下磯部村の采主だった人物。磯部地域の村々は、柳瀬川だけでは水田に引く水が足らず、碓氷川から用水を引こうと西隣・人見村の采主に交渉した。けれども、西隣の采主は「うちの領地には、何の得もない用水。工事なんて…」と、用水工事に難色を示し、計画はなかなか進まなかったという。

 堰に関する交渉は、1658(明暦4)年にスタートし、第1回目の議定が成立して手形が残されたのが1666(寛文6)年。その後、工事には着手したものの、やはり遅々として進まない。市史等の資料には「人見村(大王寺)の采主であった吉良若狭守が、自領に何の利もない工事に、高家の威を借りて妨害したためであるといわれる」と記されている。

 そこで、考えた(?)因幡守。「そうだ! 磯部を天領にしてもらって、用水工事を進めてもらおう!!」。因幡守は幕府に領地替えを願い出て、磯部は「天領」に。幕府主導で用水工事を進め、ついに1673(寛文13)年、長い交渉、工事を経て「人見堰」が完成した。磯部の村人たちは、そんな因幡守を称えて「稲葉大権現」として祀ったという。その証が、石祠と頌徳碑だ。
 
 さて、西隣の采主…吉良若狭守。高家で気づいた方もいるだろうが、かの吉良上野介義央の父である。しかも、因幡守が幕府に願い出た時には、若狭守はすでに亡くなっており、上野介が家督を継いでいる。親子二代にわたる出来事だったワケだが、もう一つ、『親子二代』が重なる。赤穂事件の討ち入り後、赤穂義士らが口上書を届け、事の次第を報告した幕府大目付・仙石伯耆守久尚は、因幡守の次男。義士らの処分を議論した幕府評定所の席でも、伯耆守をはじめとした多数が赤穂側に味方する意見を持っていたともいわれている。

 何ともいえない因縁を感じるのは、記者だけだろうか?  仙石因幡守が領地替えを願い出た寛文9年ごろ、伯耆守は10代後半。そして、30数年後…赤穂事件が起こる。想像の域を出ないが、伯耆守は「吉良上野介…。あぁ、父上の領地・上野国の『堰』の時も、イロイロあったなぁ」と思ったかもしれない。

 なお、別媒体に掲載した記事を読みたい方は、下記URLへ。
http://www.kubaru.jp/info/pdf/151204_1.pdf

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