?後閑城…攻めたカモ?! ~ Anna 鴨×旅 Vol.2 ~
【後閑城・二の丸 編】
後閑城址公園・南郭から5月の新緑を堪能した前回。後閑城の説明を全くしていなかったため(忘れたとも言う)、ちょっとだけ説明する。というか、西第三郭広場には後閑城の総合的な説明板はなく、実は本丸(主郭)部にあったりするのだ。お出かけになる方は、頑張って上までのぼってください!!

南郭。後方に見えるのがあずまやでござる
安中市指定史跡となっている後閑城址は中世の山城「後閑城」を公園として整備した場所。信濃国佐久郡の依田忠政によって、1441(嘉吉元)年に築城されたと伝わる(本丸部にある解説には、嘉吉・文安の頃、十五世紀中葉に築かれた、とある。前出の年代は市HP・市指定文化財の詳細ページを参照した)。依田氏三代が居城し、忠政の孫、光慶が板鼻に移った後は、北条政時(政村との資料あり)が居城したというが、その後、武田信玄が新田(岩松氏との説もあり)信純に後閑の地を与えたことから、後閑姓を名乗るようになったとも…(後閑氏については諸説あり、不明な点も多い様子)。城は、豊臣秀吉が北条(後北条)氏を滅ぼした後、廃城となっている。
さて、今回…。あんなカモちゃんと編集長は、南郭から『戦略上、築城当時はなかった道』をテクテク歩いて、二の丸へと向かう。
「櫓(やぐら)でござるカモ、殿! 」
「その時代劇口調、もう、いいんじゃない? 」
「この櫓、発掘調査で柱跡があることが分かったので推定復原された『物見櫓』だって! 説明板に書いてあるカモ~」
カモちゃんが教えてくれた説明板には、後閑城二の丸の解説が書かれている。それによると、二の丸は本丸から完全に独立した、いわゆる「一城別郭」構造になっているという。本丸から約20mの比高差がある二の丸は、北から南東方向に「く」の字形に曲がりながら延びており、大堀切によって本丸との間は完全に断たれている。戦いの際、たとえ二の丸が『落とされた』としても、本丸に累を及ぼさないようにと考え、このような構造になっているのだという。
さすが山城…この場所の地形をうまく使った、見事な『戦略』でござる。
そして、大堀切に面した部分に建つ物見櫓。こちらはカモちゃんも言うように、推定復原された櫓だが、現在(2016年5月中旬)、立ち入り禁止で上れなくなっていた(老朽化で危険なためか?)。2人とも高いところにのぼりたいタイプなので「む、無念でござる…」という思いで登楼をあきらめた。

二の丸・あずまや前でひと休みするあんなカモちゃん
さぁ、次回はいよいよ「後閑城・本丸編」カモ。乞うご期待! カモ?!