板鼻宿 謎の大城跡・板鼻城址

(2015年2月11日 柳生 聡)

①主城部の全貌を遠くからDSCF2688 ②鉄塔の立つ本丸部分DSCF2696 ③城の大手口DSCF2711 ④大手から駆け上がると、本丸の前面を防御する曲輪の土手DSCF2713 ⑤本丸の入口。個人のお宅の敷地。DSCF2716-2 ⑥城裏口にあたる搦手(からめて)口を外側から。DSCF2729 ⑦安中からみえる鷹ノ巣の断崖の上は狼煙台。DSCF2733 ⑧小丸田出丸から板鼻の家並を見下ろすDSCF2708

 

あきらかに城跡が残っていても、その歴史が記録されない城跡というものは多い。
でも、これほど巨大な「謎の城跡」も珍しいのではないだろうか。「街道を往く」は板鼻宿の“ミステリー現場”から。
▼武田侵略時代の城跡か?
 板鼻宿が設けられて中山道屈指の宿場として栄えたのは江戸・徳川時代になってからのこと。それ以前の群雄が割拠する戦国時代は、この付近を東山道が通り、鎌倉街道(鎌倉ー善光寺道)を分岐する交通の要地だった。
上州には強力な大名がいなかったので、武田・上杉・北条氏が取り合う“草刈り場”でもあった。関東管領上杉氏が上州平井城(藤岡市)から越後へ亡命した後も、重臣・長野業政(なりまさ・業正ともされる)は箕輪城(高崎市箕郷町)に踏みとどまって頑張り、西上州一帯の武将を傘下に、武田信玄との攻防戦を繰り広げた。
武田軍の上州侵攻との関連も指摘されているが、諸説あって、これだけはっきりした遺構がありながら、いまだに謎に包まれている城跡だ。
その城跡を歩いてみよう。
▼『城好き』でないと気づかない
写真①は現在の国道18号線にある鉄道陸橋から城址本城部を撮ったもの。
中央の山が板鼻のシンボル天神山。わかりにくいが、そのすぐ下の丘全体が城址になっている。
左手に鷹ノ巣の断崖(出丸)、右手に小丸田出丸とが両翼から本城部を守っている。
写真②が本城部の中心をズームしたもの。鉄塔の建っている直下が本丸。城主の居館があったのかもしれない。丘の上まで宅地開発が進み、現在は本丸も個人の宅地なので立ち入ることができない。
下の寺院の大屋根がみえる敷地はもう城の一部だから、その高低差を実感して欲しい。
マンション脇の大手口(写真③)から急坂を登る。丘の上の宅地化で、自動車でも上がれる道ができた。
上り詰めるとやがて本丸前面の曲輪の斜面に阻まれて(写真④)やや右へそれ、頂上に出たところが(写真⑤)本丸の入口。
そのまま平坦路を行くと、丘がいったん途切れる場所があり、空堀の跡を思わせる搦手(搦手)口(写真⑥)に出る。むこうの古城団地は当時の城外になる。
▼螺旋(らせん)状の設計
頂上本丸の標高は168.3m。板鼻の街より40m高い。本城の規模は400m×300mの扇形楕円の丘全体だ。
外部から内側に向かって渦まきのように巻き込んでいく珍しい縄張り。
江戸城や姫路城などに見られるが、ここは水堀を用いず、空堀の壕底を人馬が行き来する交通壕だから、非常に珍しい。
本丸の壕を中心にらせん状に外部へ壕を展開する。
城兵は外部から見られずに思う方へ出撃でき、攻め寄せた敵は壕を侵入せざるを得ないので、必ず正面側面から射撃を受ける。
▼歴史から抜け落ちた城
長野業政の命令で、娘婿依田光慶(後閑城主)が築城したとも伝わるが、武田軍と長野軍の戦闘記録にこの城が登場しない。
築城形式から、武田が上州を支配した後に、箕輪城と安中城や甲州を結ぶ中継基地として築城したことも考えられる。
写真⑦鷹ノ巣の断崖上にある出丸は、あきらかに武田の狼煙台と思われる。
平和になった江戸時代には主城部は無視され、小丸田曲輪(写真⑧、現在は市の老人福祉センター)だけが代官所として利用されている。
※群馬県の城郭研究の第一人者・故山崎一氏の「群馬県古城塁址の研究」を参考資料にしました。

【広告】